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2025年 01月 12日
土佐街道の旅を終え、私はネットで情報を確認しながら原稿を書いていた。 高知県側の旧街道の情報はほとんど無いが、愛媛県側のそれは案外多く、同じルートを踏破した方も少なくない。そんなネット記事を読みながら、私は悦に入っていた。 (ふふふ、そこは私も訪問したぞ。そうそう、こんな景色だった。)
ニヤニヤしながらネット記事を徘徊していたのだが、とあるHPの画像が目に入った途端、私は驚きの余り、椅子からずり落ちそうになった。
(五里石が・・・あるじゃないかっ!!) 竹井賢二氏『愛媛ぶらぶらある記』画像はこちらのリンク先からご覧ください。 三坂峠手前あたりに設けられていた五里石は、昭和48年の時点で行方不明になっていたはずだ。それがなぜか、松山市内の須賀神社境内に立っているという。場所を調べると、私が訪問した二里石のすぐ近く。 (しまった!それならぜひ立ち寄るべきだった!)
後悔先に立たず。しかし私が驚いたのは、それだけではなかった。 何と、同様に四里関のレプリカも設置されていたというではないか。このあたり、すぐそばを走っていたはずなのに、なぜか全く気が付かなかったのである。 復刻四里石は最近になって設置されたものかも知れず、ある意味しかたない。私が愕然としたのはその脇に、遥か昔に川底に蹴落とされていたはずの、本物の四里関の上半分が安置されていた事だった。いったいいつの間に、誰が見つけ出したのだ? 上記の情報は幾つか他のサイトでも紹介されているので、どうやら私が知らなかっただけらしい。トレース地図までお膳立てしてくれている愛媛県教育委員会の報告書だけで、これで十分と満足していた私の落ち度であった。情報が古いとは分かっていたが、なにせ旧街道の事、むしろ古い方が良いとまで考えていたのがアダになったのだ。 私はすっかり混乱してしまった。疑問点を整理してみると次の通り。
①四里石のレプリカはいつ設置されたのか。 ②本物の四里石の発見と保存・設置の経緯。 ③五里石はいつから須賀神社に保存されていたのか。 (98年発行の県教育委員会の調査資料には全く触れられていない) ④須賀神社の五里石はそもそも本物なのか。
これら疑問点は、いずれ愛媛県教育委員会に問い合わせしてみたい。 いずれにせよ、伊予の里石巡りはいつかリベンジするべき案件として残ったのであった。 (この項、終り) #
by james_y1964
| 2025-01-12 05:56
| 旧街道で四国一周!
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2025年 01月 03日
全く情報が無い中、まずは佐川町をどう抜けるかだ。
地図を俯瞰すると、土佐街道が高知城を目指すルートには二つのコースが考えられる。一つはJR西佐川駅からJR土佐加茂駅方面に進路を取るルート。佐川町北側を県道が抜けているので、自転車でも走れる。もう一つは、国道33号線を辿るルート。一旦南下し、JR佐川駅あたりを東進した後、再び北上したところで前者のルートと交わる事になる。
前者の方が道路地図上では若干近道に見えるが、JR西佐川駅を過ぎた先で、そこそこの標高差を越えなくてはならない。 後者は一見、不自然なコース取りに映るが、起伏も無く、神社や町役場の存在を鑑みれば、こちらを通過しない方が不自然だ。 総合的に判断して、土佐街道は国道をそのまま辿るコースに近いと判断し、こちらを走る事にした。 アップダウンも多少はあるが、峠という程のものでもない。ずんずん進み、遂に仁淀川に突き当たった。河口まではまだ10kmほどあるはずだが、広くたおやかな流れはもはや下流域と言っていいだろう。渓流だった面河川を見てきた身としては、ずいぶん立派になったなあ・・・と、中学校時代の担任教師の様な事を考えてしまう。 仁淀川を渡ると、土佐和紙で知られるいの町に到着。藩政時代には土佐和紙は藩の主要な特産品となっていたことから、旧街道がここを通過しないはずはないだろう。 古い町並みは残されているが、ところどころ洒落たカフェなどに改装されているのは今どきの風潮だ。横目で見ながら進んで行くと、路面に線路が敷かれている。顔を上げれば、“とさでん”こと、とさでん交通の伊野線始発駅、伊野駅舎があった。
古風な駅舎は保存建築かと思ったが、案内板には平成20年(2008)建築とある。復刻駅舎とでも呼ぶのだろうか。それでも嬉しい配慮である。 とさでん交通が生まれたのは2014年。前身は土佐電気鉄道だが、いろいろあって関連会社と合併し、今に至る・・・と知ったのは帰宅後のこと。恥ずかしながら、ずっと(ひらがなではなく)“土佐電”と思っていたのだ。
その辺りの事情には、個人的にはあまり関心は無い。ただ、この路面電車の存在が、土佐街道のルートに関係していると睨んだのである。
路面電車の敷設にあたり、その路線配置は地元民の利便性を考慮するのは当然だろう。モータリゼーションの波が来る前の時代、路線は大通り、つまり現地の幹線道路に計画されたのではなかったか。高知市中心部から伊野にかけては、それが(高知側での)松山街道を意味する。 つまり私は、とさでん伊野線のルート、イコール土佐街道と考えたのである。そして伊野線は高知城まで、おおむね国道33号線の路上にある。
これは乱暴な推察かもしれない。土佐街道は別にあって、四国新道たる国道33号線が整備された後、そこに土佐電鉄の線路が敷かれたのであれば、私の推察は完全にひっくり返ってしまう。真実を見つけるのなら、それぞれの歴史を深掘りして裏を取らねばならないが、あいにく私は研究者ではない。それに市街地に入れば入るほど、道は縦横無尽に交わり、“この道こそが旧街道である”と定義づけるのがナンセンスになっていく。
そういうことで、本件に関しては大目に見て欲しい。無論、大きな過ちがあればぜひご指摘を受けたく思う。
そうと決まれば、あとは文字通り、レールの上を走るようなものだ。路面に導かれるようにペダルを踏み、市街地中心部を目指して走る。JR高知駅前から少し入ると高知城天守閣がビルの間から顔をのぞかせた。 15時40分、ゴールに定めた高知城大手門前に到着。これにて、旧土佐街道を無事に完走。帰りの特急まで、少し余裕ができた。カツオのたたきで祝杯を上げ、達成感とともに帰路に就いたのだった。
さて、これにて一件落着と思っていたのだが・・・帰宅後、データーを整理していると、私は今回、重大な見落としをしていた事に気付いたのであった。(次回最終回) #
by james_y1964
| 2025-01-03 21:35
| 旧街道で四国一周!
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2025年 01月 03日
用居の家並みが消えると、国道は再び静けさを取り戻し、ひたすら山を下っていく。何度か橋を渡り、その都度川の流れは左右入れ替わるが、最後は左側に落ち着いた。気が付けば川面は広がり、深い谷底に沈んでいる。国道は右岸の断崖をどんどん進むが、旧街道はそんな危険ん場所は御免とばかり、とっくに右側の山上方向にエスケープしているはずだ。 池川町史によれば、旧街道は大西から東竹之谷へ上り、岩丸へと下って土居へと続く・・・となっている。それらの地名を地図上で繋いでみたが、それらしいルートは読み取れない。取り付き地点もよくわからないまま素通りした様だが、どうせ自転車で登れるはずもなく、気にせず国道を進む。 下るにつれ土居川の谷は開けていき、対岸にも家々が見え始めた。11時45分、土居の町に到着。土居は旧池川町の中心地で、池川は土佐藩の交通の要衝でもあった。 昼時なので飲食店を探してみたが、ウロウロするうちに中心部を抜けきってしまった。土居川対岸に渡り、観光案内書併設の食堂で定食を注文。食後に店の前に出ると“酷道”として知られる国道439号線の標識が見えた。地図を開くと、ここから少し下流で、土居を抜けた494号線と重複する様だ。 ちなみに494号線はこの先で今度は33号線と重複し、再び独立して看板を揚げるのは、はるか南の佐川町に入ってから。山奥と海辺だけ素顔を現すのは、さすが『四国の一般国道の最大番号』(ウィキペディアより)といったところか。
土居の中心部に引き返し、そこから西に進む。この道がしばらくご無沙汰していた土佐街道の本道で、池川は国境への入り口に当たるのだ。私が見たかったのは町の西はずれにある池川口番所跡で、今では民家になっている。住んでいるのは関係者の末裔の方なのか、敷地内に《池川口関所跡》の碑があるようだが、私有地には勝手に入れない。あわよくば住人の方にお願いするつもりだったが、人影は見当たらず。これしきのことで呼び鈴を押すのも気が引けるので、無理せず撤退することにした。 さてさて、やっとこさ合流できた本来の予定ルート・土佐街道だが、まことに不本意ながら、ここから再び迂回コースを走らねばならない。 国境の黒滝峠、そして水ノ峠(みずのとう)を越えて池川土居に到達した土佐街道は、ここから南にそびえる黒森山(1017m)の稜線を越えて、越智町中心部に至る。そのルートは完全に登山道というか廃道化しているらしく、サイクリングとしては論外な模様。代替にふさわしい迂回路など無く、越智町までは四国新道こと国道33号線を下るしかないのだ。国境を越える際には散々拘りもしたが、もはや大義もへったくれもない。私は割り切って、国道を使って越智まで“ワープ”することにした。 交通量こそ多いが、流石に二桁国道の路面は快適だ。494号線兼439号線は土居川沿いに敷設されているが、川の流れは道路から随分下。明治に入らなければ、このルートの設置は無理だろうなあ、と改めて思う。 国道33号線に交わるポイントで土居川も、西から下って来た仁淀川本流と合流する。この仁淀川は元・面河川で、県境を越えた途端に名を変えるのだ。源流の面河渓は愛媛県の代表的な観光スポットの一つだが、流れ出る河口は瀬戸内海ではなく太平洋。恥ずかしながら、これらは今回のサイクリングで初めて得た知識の一つである。 仁淀ブルーと称される川面は美しいが、旧街道とは無関係なコースなので、難しい事は考えずにどんどん下る。山々を下り切ったあたりで、越智町中心部に到達。山を越えた土佐街道はここの辺りに降りてくるはずなのだが、はっきりとしたルート情報は得られなかった。分かっているのは、この先にある赤土峠を越えているという事だ。赤土峠は勤王の志士達が脱藩の際に越えた峠で、記念碑が建てられている。 越智の古い商店街を抜けて国道に復帰し、南下する。まもなく赤土峠と言いたいところだが、取り付き箇所がよくわからない。歴史に名を残す峠を越えたいのはやまやまだが、ここでまごまごしていると帰りの電車に間に合わなくなる。断腸の思いで国道トンネルを抜けることにした。もう坂道を登りたくない、というのが本心ではあるが。 赤土トンネルを抜けると、一度自転車を降りて深呼吸。山岳エリアは終り、既に佐川(さかわ)町に入っている。ここまでは、まがりなりにも土佐街道のルートを辿る事ができた。どうしても走れない箇所は、オリジナルルートを理解した上で迂回路を選んできた。 ここから先、土佐街道の情報は一切無い。高知県立図書館で散々調べたが、結局何の情報も得られなかったのだ。とはいえ、何の裏付けもポリシーも無く走るのだけは避けたかった。 何か月も葛藤していたある日、ふと目に留まったのがシクロツーリスト誌Vol.5(2011発行)の『追体験の旅、街道サイクリングの旅』(中堀剛氏執筆)という記事だった。 長くなるので引用は避けるが、その文章の中、自ら旧道を探し当てるテクニックについて触れられている個所がある。それらの大部分は私も以前から無意識に活用していた方法で、10年以上前に初めてその記事を読んだ時にはさほど驚きはしなかった。 そしていつの頃からか、旧街道を正確にトレースする事に拘るうちに、私は専門家が用意してくれた情報(テキスト)に頼り切るようになっていた。詳細な調査を踏まえ、完璧なお膳立てをしてくれた地図無しでは、旧道サイクリングに出発できなくなっていたのである。 久々にこの記事に目を通した途端、私の目からウロコが落ちた。 (そうだ、そうだった!調べてわからなければ、自分の感性で探ればいいのだ。自ら旧道を探すことも、旧街道サイクリングの醍醐味だったはずだ!) 大切な事を思い出した瞬間だった。暗礁に乗り上げていた土佐街道サイクリングのプランニングは、こうして再開したのである。(続く) #
by james_y1964
| 2025-01-03 12:25
| 旧街道で四国一周!
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2025年 01月 02日
『四国』の語源は言うまでも無く阿波(徳島県)・讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)・土佐(高知県)の四つの国(地方)である。本稿で何度も書いた通り、通常『○○街道』という呼称は目的地を指したものであり、例えば徳島から香川へ向かうのなら『讃岐街道』、逆なら同じ道が『阿波街道』となる。一般的には冒頭で触れた『目指す国名』を入れる事が多い。本稿も一応、そう統一している。したつもりだった。
ふと気が付いた事がある。愛媛から高知を目指すのは『土佐街道』なのに、高知から松山を目指す場合は『伊予街道』ではなく『松山街道』と呼ばれているではないか。 ちなみに、香川および徳島から愛媛を目指す道はどちらも『伊予街道』で、つまりは高知だけが例外になっているのだ。
『コイツ、また重箱の隅をつつき始めたぞ。愛媛と高知の県境は長いから、たまたまゴールの都市名を街道名に使っただけだろう。』 そんな声が聞こえてきそうだが、ならば逆方向が『高知街道』と呼ばれてもよさそうなのに、そんな呼称は私の知る限り、無い。
本腰で研究すればそこに深い意味と理由があるのかもしれないが、全く無いのかもしれない。なのでこの話はここで止める。なんでこんな屁理屈を言い出したかと言えば、今から話す事と何かしら関係性がある様な気がしたからだ。無関係かもしれないが。
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本シリーズ『旧街道で四国一周!』の基本情報は、四国各県の教育委員会が編纂している『○○県歴史の道調査報告書』で、県立図書館に行けば閲覧できる(ただし持ち出し禁止)。タイトルと内容の構成が統一されているのは、事前に打ち合わせして足並みを揃えているからだろう。実地踏査して旧街道を国土地理院の地図にトレースしたものが巻末に付され、もうこれ一冊あれば他は要らない、という程の非常にありがたいテキストだ。
ところが。 私が求める情報、つまりそれぞれの国を繋ぐ旧街道の調査報告書が、高知県だけ発行されていないのだ。あるのは旧街道の一つ『北山道』に関してだけで、これは松山ではなく、愛媛県の川之江(四国中央市)がゴールの街道だ。私が求めている松山から高知を結ぶ、伊予側からいうところの『土佐街道』の調査はなされていない。同様に、高知から徳島を目指す『阿波街道』も、その調査報告書は無い。
土佐街道の旧街道サイクリングの出発が遅れた最大の原因がこれで、結局何か月も調べに調べ、どうにか郷土研究科の山崎清憲氏の著作物に辿り着くことができた。勉強にはなったが、先の調査報告書のような至れり尽くせりのトレース地図までは無く、残念ながらルート情報を完全に入手するには至らなかった。
なぜ、高知県教育委員会は『北山道』しか調査報告書を編纂しなかったのだろうか? ここからは個人的な勘繰りとなるので、不愉快な思いをされる高知県民の方々には予めお詫び申し上げておきたい。
『北山道』は参勤交代に頻繁に使われたルートで、関連図書は複数出版されている。高知県にとってはメジャーな街道の様で、ルートが被る高知自動車道のパーキングエリアの壁には、殿様の籠の絵が描かれている程。
当然、県教育委員会もこの街道の調査報告書を出しているが、これだけ他県の報告書と内容の構成が異なっている。そして他の街道に関しては・・・無関心としか思えない。
********************************
本文で触れたとおり、松山藩は旧街道の沿道に里石を配した。もともとは木製のものを、ある時期にメンテナンス不要で耐久性に勝る石柱に置き換えた程なので、関心が高いというか几帳面というか、とにかく熱心さが伺える。 それに対し、同じ土佐街道(高知からは松山街道)でも、土佐藩側には里石を配した形跡が無い。一里塚はあったが時代とともに消失したのかもしれないが、松山藩の様に石柱を立てるまではしなかった様だ。山崎氏も著作の中で『土佐側には、標石のひとつも見当たらない。』と記している(土佐史談179号)。 土佐藩は近隣諸国の往来には、あまり興味が無かったのか。それどころではなかったのか。あるいはその意識は、四国を一気に北上して向かう、本州にのみ向けられていたのではないか。 ******************************** たまたまか、私の情報不足なのか。ともかくそんな具合なので、藩政時代も現代も、潜在的・根源的に高知市民の関心・意識は隣県よりももっぱら本州の方角に傾注しているような気が・・・いや、気のせいか。気のせいだろう。いくら何でもこりゃ暴論か。
とにかく高知県教育委員会様、他の旧街道の報告書もぜひ、調査・編纂してくださいませ。 とどのつまりが、本稿はただの愚痴であった。どっとはらい。 #
by james_y1964
| 2025-01-02 07:40
| 旧街道で四国一周!
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2025年 01月 01日
面河川を渡り山奥に向かう土佐街道には入らず、そのまま真っすぐ東へ進む。ここから旧池川町土居までは、北側の迂回路を走る予定である。県道をしばらく走ると、古味に到着。旧久万町中心部以来、久しぶりの町らしい町で、ここから国道494号線に入る。 【クリックで地図拡大】 この迂回路について、少々補足説明をしておきたい。 既に本来の土佐街道から外れている為、愛媛県側の参考資料は無い。ここからは高知県側の資料を使わせてもらうが、大半は山崎清憲氏の著書に頼る事になる。
迂回路として走る国道494号線の古味から高知県旧池川町土居までの区間は、藩政時代に存在した旧道と概ね並走しており、メインルートの土佐街道を補足する位置づけになる。よくわからないのがその呼び方だ。 通例『○○街道』の呼称は出発地から見た目的地の名前を呼ぶものであって、本稿でも便宜上『土佐街道』と統一している。高知県側からすれば同じ道が『松山街道』となる訳だ。 山崎氏はその著作の中で、黒滝峠を越える土佐街道を『雑誌(ぞうし)越え予州高山通り』、北側の旧道を『(旧)松山街道』と称している。『雑誌~』というのはルート横の雑誌山からのものだろうが、なぜメインルートではなく、サブルートの方に『松山街道』の名が冠されたのかがわからない。
高知市と松山市を結ぶ大動脈として、新たに敷かれた国道33号線が後年『松山街道』と呼ばれるようになったのは自然の成り行きだが、こちらも不思議な事に、県北部の仁淀川町に入ると、『松山街道』の呼称は33号線ではなく、494号線に振られているのだ(*筆者注・昭文社ライトマップル高知県の記載)。つまり山崎氏が個人的にそう呼んでいるのではなく、地元民にもその呼び方が認知されていると推測できる。 とっくに廃道化したオリジナル旧街道(黒滝峠越えルート)が無視されるのは分かるが、土予往還の重責を国道33号線に譲り、一部区間は“酷道”とも呼ばれるマイナーな494号線が、なぜ『松山街道』の大看板をいまだに背負っているのか?
重箱の隅の話だが、どうも釈然としない。機会があれば、高知県民の方々にぜひ尋ねてみたいと思う。
閑話休題。 地図上、上から降りてきた国道494号線は古味でL字に曲がり、東に向かう。引き続き、川の流れを右下にに見ながら走るが、こちらは面河川の支流の東川。その先の地名に東川とあるので、地図によっては“東川川”とあるからややこしい。 それにしても・・・道路状況がかなり怪しい。薄暗く、狭く、荒れている。さっきまで走っていた県道の方がよっぽど広く、整備されているではないか。 少し不安になった私は、工事現場の青年に尋ねてみる。 『あのー、この道って国道ですよね?』 『・・・ハイ。まあ3桁国道ですからね。』 苦笑いしながら、青年は仕事に戻っていった。 私はこの旅の出発までに、古味から国境までの旧街道(松山街道)の正確な情報を得る事は出来なかった。旧道は古味を経由して七鳥に至る、という事しかわかっていない。しかし貧弱な国道494号線を走っていると、もうこの道でいいだろう、と思い始めた。さほど大きな集落も無く、左は結構切り立った地形のこの辺りには、現在国道が敷かれている線上以外に、道は作れない気がしてきたのである。 進むにつれ東川は狭く深くなり、道路から離れていく。クルマの通行はほぼ皆無。坂道は険しくなり、路面には落ち葉が目立つ。大汗をかき始めたころ、正面にトンネルが見えた。県境の境野隧道だ。時刻は10時25分、小休止。ボトルのお茶が美味い。 トンネルを抜けた先は高知県仁淀川町。下り基調の道を調子よく飛ばしていると疲れも吹き飛んでいく。 右下に川が流れているのはさっきまでと同じだが、県境で分水嶺を越えているので流れは真逆になっている。面白いのはこの土居川も、県境まで並走していた東川も、どちらも仁淀川の支流で、仁淀川町の真ん中あたりで合流することになっている。『川は南(讃岐山脈)から北(瀬戸内海)に流れてオワリ』という認識の香川県民にしてみれば、もう訳がわからない。 快調に下ってはいるが、本来の旧街道は境野隧道の手前から左の山に登り、そのまま斜面に沿って伸びているはずだ。とても集落があるとは思えないが、点在するバス停と、そこから延びる坂道が、その存在を示している。 (さて、用居口番所跡はどこかいな・・・) と、集落中央を行ったり来たりしてみたが、どうも見当たらない。とうとうしびれを切らし、作業中の優しそうなおじさんに声を掛けてみた。 『すいません、確か用居にあった番所はどこにあるのでしょうか?』 『ああ、ああ、それはここ。』 『へ?』 おじさんが指差したのは私のすぐ背後。そこにはやや広い庭が開けた民家だった。中央の庭木の周りはなぜかビニールシートに覆われていて、ひと気は感じられない。 『ここが昔の番所跡でね、少し前まで人が住んでたんだけど、県外に出て行ったから今は空き家になっているんです。シートは雑草除けに敷いているの。』 彼ののジャンパーの胸元には名字が刺繍されていたので、ここからはNさんと呼ばせてもらおう。 『この家だけ、庭が広いでしょう。番所があった頃の名残です。』 言われてみると他の家々に庭など無く、家屋は街道筋に面して建てられている。 『なるほど!ところで史跡を示す標柱があったと聞いていたのですが・・・』 『ああ、それはこれ。』 Nさんは庭先に倒れている、朽ちかけた角材を持ち上げた。 『修理の予算を付けてくれと町に頼んだんですけどねえ・・・全然相手にしてくれないのです。』 残念そうな顔をするNさん。レプリカまで作って里石とその歴史を守る久万高原町とは大違いである。
『あっちにあるお堂も見られますか?』 『ぜひお願いします!』 旅人の接待に使われたというお堂『茶やん堂』である。予習はしてきたものの、まさか案内までして頂けるとは!聞けばNさんはこの地区の世話人的な役職に就かれているそうで、他にも興味深い情報をたっぷり聞かせて頂けた。 実に有意義な時間を過ごした後、Nさんにお礼を言って用居を出発。土居川沿いの国道を一気に下る。(続く) #
by james_y1964
| 2025-01-01 19:04
| 旧街道で四国一周!
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