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2021年 03月 28日
郷土史や旧街道に関心が高まり、高松城と丸亀城を結ぶいわゆる『丸亀街道』(丸亀~琴平を結ぶ街道とは別)の存在を知る。旧街道サイクリングのためにざっと下調べを始めたところ、いきなり壁に突き当った。丸亀城は徳川時代の初期、一国一城令によって廃城になっているのだ。ところが京極氏が預かる丸亀藩と丸亀城は幕末まで存在しているではないか!もう訳が分からなくなってきた。かといって、歴史的背景を無視して旧街道サイクリングするのはポリシーに反する。私は渋々、本腰で郷土史のお勉強を始めたのであった。
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長曾我部氏を退けた豊臣秀吉は天正時代、讃岐の国に生駒親正を送り込む。親正は高松城を造り、西讃には丸亀城を築いて息子の一正を配置。生駒氏の讃岐統治は関ケ原の合戦以後も続き、その時期は高松藩・丸亀藩というよりも生駒藩と呼ぶ方がふさわしいだろう。丸亀城は高松城の支城の役割を果たしていた、と言っても間違いではなさそうだ。
さて問題の一国一城令はこの生駒時代に発令され、確かに丸亀城は一旦廃城になった・・・とされている。ところがこのお達しは結構アバウトだったらしい。事実上、丸亀城は廃棄されず“樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限し、実は破却していなかった(ウィキペディアより引用)”だけで、後にちゃっかり復活することになるのである。
ところで件の生駒氏だが4代目の出来がかなり悪かったらしく、お家騒動が勃発。詳細は割愛するがこれがいわゆる生駒騒動で、生駒の殿様は出羽の国に飛ばされる。要は左遷で、代わりに高松城に送り込まれたのが徳川一族の松平頼重。本社から創業社長の親戚筋が新支社長として着任した、と考えれば分かり易い。 ここから『高松城の松平のお殿様』の時代が幕末まで続くことになる。法然寺を造って菩提寺にし、栗林公園を整備し、東讃においては白鳥神社に多額の寄進をして再興。香川県民にとっては生駒氏よりも松平氏の方が馴染みが深いのも当然だろう。
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一方丸亀城だが、高松城の松平氏より一足先に、名君と誉れ高き山崎家治が着任。ここから正式に丸亀藩が発足し、山崎氏は初代丸亀藩主となった。 築城の名手と知られる家治は正規の手続きを経て丸亀城を復活させるのだが、凝った作りに改修し始めたため、結局完成の目を見ずに没する。更に山崎氏は三代でお家断絶となり、丸亀城は京極高和にバトンタッチされる。ここから京極丸亀藩が幕末まで続くのだが、高松藩と丸亀藩の立ち位置、バランス関係はどのようなものだったのだろうか。丸亀藩は戊辰戦争の折には官軍側に付き、高松城の松平勢を追い詰めたとの事。両藩の藩士の間には、幕政時代を通じて何かしら思いがあったのかもしれない。
以上が高松城と丸亀城の歴史的背景である。きわめて大雑把だが、あまり詳しく記しても仕方がないし、歴史の勉強するのも疲れてきた。そろそろサイクリングの話題に切り替えよう。 *********************************
江戸期の街道事情を踏まえた上で、サイクリングコースを検討してみよう。実は丸亀街道は旧国分寺町~坂出市間を挟んで、東西に2つのルートが存在する。
高松城を起点として丸亀城に向かうコースの後半は、国分寺を過ぎると山側の南側ルート、海側を通る北側ルートに分かれている。南側ルートは丸亀城の南側に、北側ルートは北側に繋がっている。これはどういう事かというと、最初に生駒氏が丸亀城を築城した際は、大手門、すなわち正面玄関は南側にあった。戦国の世も終わり切っていなかった時代、四国の南西部に睨みを効かせる為でもあったが、そもそも当時は丸亀城の北側から坂出方面にかけての海側は唯々閑散とした漁村が点在するだけだったのだ。したがって、生駒時代は北側ルートは存在しなかったと考えられる。当時の丸亀街道は経済交流の側面よりも、高松と丸亀の政治的連絡道の色合いが濃かったかもしれない。 城下町が北側に栄えていくのは山崎氏と京極氏の時代からで、坂出の製塩業が盛んになっていくのもその頃である。京極時代の初期には大手門を北側に移動。その頃には北側ルートが主になっていたと考えられる。
その様な理由から、南側コースを『生駒ルート』、北側コースを『京極ルート』と呼ぶことにして、往復でそれぞれのルートを辿ってみようと思う。あくまで私的な呼称であって、学術的な正式名称では決してない。 なお、前半の高松城~国分寺間のルートに関しては、レポート本文中で触れる事にしよう。 前置きが長くなったが、満を持して『丸亀街道』サイクリングの出発である。
by james_y1964
| 2021-03-28 07:54
| 『讃岐旧街道を走る』
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Comments(2)
こんにちは。
久しぶりの更新ですね。 一応、毎日アクセスはしていますよ(笑)
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Commented
by
james_y1964 at 2021-03-28 16:42
カワイ店長、連日のアクセス恐縮です(大汗)。本当に久しぶりの、久しぶりの更新です。さて、次はいつになるやら(こらこらこら)。懲りずに見守ってやってくださいませ(笑)。
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