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2010年 06月 27日
セピア色の大通り・昭和のバス道を走る(その一)
香川県東部(東讃)における旧街道と言えば海岸線沿いの志度みち(浜街道)と内陸部の南海道(中筋大道)であり、現在はそれぞれ国道11号線、香県道10号高松長尾大内線(長尾街道)がほぼそのルートに沿って走っている。 これら二本の旧街道は私の自宅の近所(町田)で合流し、東かがわ市を横断して徳島県(阿波)へと進んでいる。 私はこれら讃岐の旧街道をいつか自転車で走破してやろうと目論んでいるのだが、これまで中々重い腰が上げられないでいた。理由は至って簡単。いずれの街道も今ではありふれた生活道路と化しており、丸一日を費やする割りに面白くも何ともないコースに違いないからだ。 6月ともなれば仕事が繁忙期に突入し、サイクリングの為のまとまった時間が取り難くなってくる。そこで今回、上記二つの街道の合流地点から以東、すなわち我が東かがわ市を横切るルートを走る事にした。このコースは二つの旧街道が重複する区間であり、それぞれの旧街道サイクリングを行う際に二度も走りたくはない。そもそも町内の生活道路なのだから尚更だ。起点は我が家のすぐ近所で、全区間走っても半日あれば十分だし、東かがわ市を横断する旧街道の走破という達成感も得られるだろう。私は早速図書館へ行き、市内を走る南海道のルートを調べる事にした。 しかしその考えは甘かったのである。 そもそも南海道は奈良時代以前につくられた官道であり、その記録も痕跡もほとんど残っていない。旧引田町から旧白鳥町にかけてのルートは専門家の間でも未だ研究中で、私などが首を突っ込める領域ではなかったのだ。 ハイキングコース紹介本の様に思えるが、中身は歴史研究に基づく旧街道 散策ガイドに近い。著者は南海道について『讃岐の六駅のそれぞれの位置に ついては、なにひとつ確定的なことはわかっていない。私は私なりに、 それを確定してみようというのだが、最後には考古学的な発掘によらなけ ればならない。それまでは推定に過ぎない。』と語っている。 無論、大体の道筋は推察されてはいる。しかし『旧街道をトレースするぞ』と意気込んでいた私にとって、そのルートがうやむやなまま走る事は、何かしら不完全燃焼な気がしてならない。 困った私は、ハードルを少し下げてみる事にした。江戸時代の讃岐~阿波連絡道ならルートを確定できるのではないか。再び図書館で郷土史をめくり始めたのだが、段々面倒くさくなってきた。そもそも道というものは自然発生的に生まれるのであって、讃岐~阿波間を結ぶ道筋も(特に平野部には)複数あってもおかしくない。時代と共にルートが変わることもあるだろう。『これこそが唯一絶対の高松~徳島連絡旧街道』というものは無いのではないか。 そうは言いつつ、頑固な私は“東かがわ市横断サイクリングの指針”を定めなければ気が済まない。色々悩んだ挙句、ふと閃いたのが (そうだ、11号線以前の幹線道路、昔のバス路線を走ろう!) というものだった。 高松と徳島を結ぶ国道11号線が開通したのは戦後の事で、それ以前の幹線道路を調べる事はそう難しい事ではないだろう。旧幹線道は当然、それまでの旧街道を利用したものに違いなく、そこを走る事はおのずと中世以後の旧街道を走る事にもなろう。 昭和15年生まれの母の話に拠れば、我が家の前の道路が正にその“バス道”であり、世が世なら私の家はメインストリートに面した一等地のお屋敷であった・・・とは言い過ぎか。田舎の農村地帯、旧丹生(にぶ)村レベルの話である。 もっともそんな昔のメインストリートも、今では単なる住宅街に伸びるありふれた道路と化している。従って今回のポタリングレポート、読んでも大して面白くはありませんのでご容赦下さい・・・と書き始めるつもりだった。 ところがどっこい、これが実際に走ってみると、新鮮な驚きあり、新しい発見ありの予想もしなかった展開となるのである。 2010年6月20日(日)、午前9時50分。自宅を出て、一旦反対方向へ向かう。今回のポタリングは将来の志度道・南海道サイクリングの最東部走破も兼ねる予定であるからして、どうせ走るのなら南北の旧街道が交わる交差点を起点としたい。両街道の合流点は、自宅からものの50メートル程しか離れていない。古い道標の写真を取り、すぐに引き返す。 石造りの道標は旧街道に点在し興味が引かれるが、一つ一つを吟味しているとキリが無い。それらの解説は郷土史に詳しく書かれているので、今回のポタリングでは流し見程度で先に進む事にする。 私の自宅の前を走る旧道は地元では町田筋と呼ばれる通りで、旧丹生村時代からのメインストリートであった。丹生小学校以東の子供たちに取っては通学路でもあり、私が小学校時代にはまだ多くの商店があった。雑貨店、文房具店、洋装店、食料品店、おもちゃ屋まであり、学校帰りに仲間達とショーウインドウのプラモデルを物色するのが日課だった。今ではそのほとんどが商売を止めており、通りは静かな住宅街となっている。 かつてこの道が商業エリアであった事の名残の広告燈。商店街として統一デザインで設置していたのだろう。もっと残っていると思っていたが、現存するのはわずか二つだけだった。 町田地区を過ぎると、松崎地区に入る。ここまでくると道路の両側に田んぼもちらほらと見え始める。住宅街の旧道は左手の国道11号線とほぼ平行に走っているが、番屋川の土手沿いに出ると、その西岸を少し下って一本松橋を渡り、旧道はそこから国道を斜めに横切って進む。 昔と随分変わっているはずで、道筋の流れに不自然さを感じなくもない。古地図でも 入手できれば検証する必要有り。 旧道は田んぼの中を進み、再び住宅街の中へと延びて行き、与田川と直角に交わる橋に出る。橋の名前はズバリ、与田川橋。 与田川は旧大内町の水瓶、大内ダムの水源となる川で、この辺りでは地元を代表する河川である。この道がかつての幹線道路であった事を考えると、与田川橋という単純明快な名は、ある意味理に適った命名だろう。 与田川橋を渡って少し右に行った所に、戦国時代の武将、梶原景辰の墓がある。 おおち夜話(新井とみ三・著/平成7年改訂版発行)によれば、天正11年 (1583年)、長宗我部元親の大軍に攻め込まれ、討ち死にした武将とのこと。 もっともこれは後に子孫が古塚を修理したもので、遺体を弔った墓所の所在は はっきりとは分かっていない。 地元のご婦人が参拝に。 与田川を渡り、更に進むと三本松エリアに入る。JR三本松駅前の道路は近年拡張されたが、これはその先にある高速大内白鳥ICへのアクセスの為だろう。歴史ある三本松駅を左に見ながら、旧街道は三本松中心部を横切って進む。 かつて三本松は香川県東部を代表する商業地域であり、支店経済の要でもあった。しかし様々な理由により、往時の活気は失われ、商店街にシャッターが目立つ様になったのは全国的な事例と同様である。地元民としては寂しい限りだが、地域住民に取って地元を愛する心は今も昔も変わりは無い。商店街関係者には心よりエールを送りたい。 建物に商店街の老舗がテナントとして入居した“ショッピングモール”である。 ・・・と思っていたのですが、『百貨店法に基づいた正真正銘の百貨店だった』 という情報が寄せられました。当時の関係者、法律に詳しい方から確認が取れ次第 改めて訂正します。同級生のryo君、情報ありがとう! ソース↓ http://uub.jp/arc/arc.cgi?N=306#15130 昭和40年代後半には活況を極め、ローカル商業施設の成功事例として全国区で 紹介された程らしい(伝聞)。エスカレーターが設置された際には、新聞広告まで 出されたものだ。現在は二階部は閉鎖され(一部は活用)、一階部店舗間も一部 往来出来なくなっており、往時の“デパート”の姿は失われている。 個人的には≪東かがわ市の文化遺産≫ に認定しているのだが。 秘蔵の逸品。 三本松中心部を抜けると、旧道は旧白鳥町の町境に差し掛かる。ここまでのルートは昔からの道路がそのまま残っており、順調に走破する事が出来た。しかし問題はここからである。東かがわ市の東西連絡道、昭和のバス道走破の最初の関門が待っているのだった。 (続く)
by james_y1964
| 2010-06-27 17:14
| 『東かがわ市右往左往』
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Comments(4)
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ryo
at 2010-06-29 13:51
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james君、お久しぶりです。
トーワちゃん!う~む、よくこれが残ってたものです。当時の三本松はほんとうに輝いていたなぁ。都会を知らない子どもだったというのを差し引いても。 ところで、真偽のほどはともかく、『十和デパート』、百貨店法に基づいた正真正銘の百貨店だった、という方もいらっしゃるようですよ(URL)。いや、だからなんだということですけどね。 http://uub.jp/arc/arc.cgi?N=306#15130
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ジェームス吉田
at 2010-06-30 00:56
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ryo君、ご無沙汰!今回の超ローカルネタ、コメント頂けるのはごく一部の方々だけとは思っておりました(笑)。次回は白鳥エリア、鋭いツッコミをお待ちしております!
トーワちゃんの紙袋、私も感動しました。しっかしなんちゅーシュールなデザインじゃ。最盛期の三本松は、丹生在住の子供からしてみれば“町”でした(笑)。 >百貨店法に基づいた正真正銘の百貨店 あっりゃー、これは私の思い込みだったかも(汗)!わたしゃ法律はワカランので、裏付けが取れるまでは含みを持たせて加筆・訂正しておきます! 情報、感謝!
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やの
at 2010-07-03 18:34
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奈良時代の官道は、近年の研究によると、現在のバイパスのように道幅10m以上で一直線のルートを取っていたことが多かったそうです。
わたしの住んでいる街にも、直線状の田舎道があります。なんでこの道は直線なんだろうと疑問に思っておりましたら、あるときNHK教育の「人間大学・景観から歴史を読む―地図を解く楽しみ 」という番組でこれは古代の有馬温泉行幸のための古道の痕跡であるという説明がなされていましたので、その疑問が解けました。
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james_y1964 at 2010-07-03 22:07
やのさん、こんばんは。
>現在のバイパスのように道幅10m以上で一直線のルートを取っていたことが多かった へえ!そうなんですか。勉強になりますです。どちらかと言うと、東海道中膝栗毛みたいな街道をイメージしてました(時代が全然違う・笑)。 残念ながら奈良時代の官道、我が地元ではほとんど残っていない様です。今見られる石灯篭や道標は、金毘羅詣でが盛んになった近世以降のものがほとんどらしいですね(たぶん)。 しかしこういう事は勉強し始めるとキリがないですねえ!面白いですけど(笑)。
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