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2016年 12月 11日
12月25日・後半大幅加筆!!
五名トンネルが開通するまでは、国道377号線は大楢から日塚峠を越え、長野に入っていた。私はずっとそう思っていた。 ところが、我が家に転がっていた1998年発行のロードマップでは、国道は一旦県境を越えてから、日開谷川に沿って香川県に戻り、長野に入っているではないか! (10万図)より。県境付近に注目。 (これは一体どういう事だ?) 五名トンネル竣工前の一時期に、国道はそのルートを変えていたのか。しかしそんなにコロコロとルートを変えていいのか。いや、そんな必要があるのか。 私は県立図書館に駆け込み、蔵書されている昭文社のロードマップを調査してみたところ、96年・98年・00年・02年に発行されている同社の道路地図では、国道377号線は全て日塚峠を越えている。 五名トンネルが開通したのは01年11月なので、02年発行分のデーターの誤りは単にタイムラグが原因だろう。 とすれば、件の98年版の国道ルートは何なのか?私は何が何だか分からなくなってきた。 道路地図の老舗、昭文社が国道のルートを間違えて掲載するとは考え難い(絶対無いとは言わないが)。かと言って、国際地学協会も真っ当な出版社だ。根拠の無い誤ったデーターを掲載しないだろう。 県立図書館の蔵書は、昭文社の96年発行分が最も古く、それ以前の資料を目にすることは叶わなかった。ネットを散々検索してみたが、決定的な情報は入手できず。 二次情報だけの調査には限界がある。これはもう、然るべき場所で確認するのが一番早くて確実だろう。つまり、行政の窓口に足を運んで、問い合わせるのだ。『国道377号線のルートの変遷について教えてください』と。 しかし面倒臭いという以前に、平日に趣味で役所に出向けるほど暇ではない。いや、もっと色々と考えてみたい。二次情報だけであれこれと考える事が楽しいのだ。 ここで、実家の物置に眠っていた、更に古い道路地図を開いてみよう。 “たぶん”というのは、正確な発行年月日が何処を探しても記載 されていないから。おおらかな時代だったのだろう。 目次の下にあった≪承認番号昭和38第1334号≫がその根拠。 五名エリアのルートが国道377号線に編入されたのが1993年。この時代、五名ダムは竣工しているはずだが、その周辺道路のルートは戦前と大差ない様だ。 そしてこの地図は25万分の1。≪車道≫しか記載が困難なレベルの縮尺で、言い換えれば、この大雑把な地図に掲載されているのは、“当時の主要道だけ”という事になる。 ここで注目したいのは、将来の国道377号線、その県境付近のルートである。日塚峠を通らずに、しっかりと日開谷川沿いに大窪寺を目指しているではないか。 たまたま我が家には、ほぼ同じ頃に発行された35万分図(若木書房発行)もあったのだが、そちらも同様で、ともに日塚峠ルートの記載は無い。無論、縮尺の都合だろうが、日開谷川ルートの方が道路として早くから開発されていたのは明白だ。地形から考えても、その方が遥かに無理がないのだから。 ここで私が言いたいのは、『主要街道としての役割は、日塚峠ルートよりも日開谷川ルートの方が大きかったのではないか』という事だ。ひょっとしたら昭和の終わり頃までは、日塚峠を越える道は、そのごく周辺地域の住民が利用する程度で、村外からの訪問者は、道幅の広い日開谷川に沿った道を利用していたのではないか。 では、いったい日塚峠が国道として供用されるようになったのはいつからなのか? ここでもう一つ、気になる資料がある。 ・五名小学校創立百周年記念行事実行委員会)より 平成4年(92年)、日塚峠を越える児童の通学風景だが、そこに写る道はとても自動車が走れるような幅ではない。しかしこの翌年には、五名を横切る道路は国道377号線に編入されるのだ。 これらを踏まえて、私が推察した国道377号線(県境周辺)の変遷は以下の通り。あくまで個人的推測なので、確実な情報をお持ちの方は誤りをご指摘いただきたい。 ①93年:国道編入時は日開谷川沿いのルート ②遅くとも96年頃:日塚峠の道路が拡張整備され、この短縮ルートに変更 ③01年:五名トンネル開通に伴い、更に変更 それでは、あの98年発行の国際地学協会版が、なぜ誤ったルートを掲載したのか。私の仮説が正しければ、その理由はおおよそ察しが付く。 つまりあのルートは、国道昇格直後のもの、そのままだったという事だ。96年前後に国道が日塚峠ルートに変更されたとすれば、98年発行のあのロードマップに、その情報反映が間に合わなかったのではないか。2年くらいなら、そのライムラグはギリギリあり得るだろう。実際、昭文社も五名トンネルの情報が一年遅れているのだから。 さて、ここまで長々と書き綴って来たが、別に国道の変遷について白黒つける事が目的ではない。戦前の五名の人たちが日常に往来した道を辿って、私は回覧板を届けて回ろうとしていたのである。その為には、どのルートを通るのが最もふさわしいか、それを知りたかっただけなのだ。 長野から大楢へ。戦前、長野や払川の人達は大楢の知人に会うために、日開谷川に沿いに遠回りしていたのか。それとも日塚峠という近道だがしんどい山道を越えていたのか。 今回の考察を踏まえ、日開谷川沿いのルートの方がより自然ではないか、という思いに強く駆られたのだが、それが正解かどうかは分からない。地元民の感覚は地元民しか持ち合わせていないのだから。 次回は県境を越えて、日開谷川沿いの道を走ってみることにしよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ さてもう一点、新たに判明した事がある(と言っても、地元の人は誰でも知っているだろうけど)。 (私はキチンと五名の各集落を余さずに走ったのだろうか。) 帰宅後、図書館で借りてきた白鳥町史をめくりながらの確認作業中、ある事に気が付いた。旧五名村中心部、即ち大楢から徳島県境寄りにある集落、東大楢は、実は旧五名村には含まれていなかったという事を! 《入野山》①の辺りが東大楢で、《五名》には含まれていない。 ちなみに、この資料を調べていた際に『鈴竹分校が建っている のは鈴竹ではなくて日下』という事を発見したのであった(恥)。 今回のサイクリングでは、東大楢エリアは全く素通りしたのだが、別に同地区をないがしろにしたわけではない。東大楢はその名称から、大楢の一部と思い込んでいたのである。白鳥町史を紐解けば、東大楢はかつては福江村に、明治初期までは入野山村の一部であったことが分かる。 実は先立って五名小学校の歴史を調べていた際、ヒントはあった。 五名小学校の通学区分、いわば校区は何度か変更されている。昭和57年(1982年)の白鳥町教育委員会規則第2号では以下の通り定めされているが、おそらくこれが最終形態だろう。 五名小学校区:大楢・入野山のうち東大楢自治会区域 同鈴竹分校区:日下・鈴竹地区 同長野分校区:長野・払川地区 長野・払川・日下・鈴竹地区児童の就学については小学校2年生以上は五名小学校とする これを見た時、(なぜ東大楢についてわざわざ断り書きするのだろうか)と、そこに不自然さを感じたものだが、町村合併の歴史を鑑みれば合点がいく。 余談だが、五名地区の地名については、他とは異なる法則となっている点も興味深い。 五名は大字の制がなく、全村を一貫して番地がつけられている。小字の数は極端に多く『白鳥町史』の「行政区画」にみられるとおり、合計八十一を数え煩雑を極めている。『白鳥町風土記』(坂口友太郎 著/昭和63年発行)からそのまま引用 私の実家の住所には字(あざ)の文字は付かず、その制には全く馴染みが無い。大字だの小字たの言われても正直チンプンカンプンなのだが、これを機に勉強してみようと思う。 東大楢が五名村に属していなかったからどうなのだ?と言われたら答えに窮する。がっかりしたわけでもないし、仲間はずれにするつもりなど毛頭無い。単に思い込みを完全に覆されたことに驚いているだけである。 ただ、なぜ東大楢が五明村に属さなかったかという素朴な疑問は残る。入野山村の中心部は五明ダムの下流、東大楢からはずいぶんと離れている。五名小学校の校区に含まれている通り、地理的には五名村に入るのがごく自然だと思うのだが。 県境と接している東大楢は、国境を巡って歴史に翻弄されたとも聞く。そのあたりに遠因があるかもしれないが、真相はわからない。 さて、色々と宿題を残してしまった今回の五名訪問だが、また楽しみが増えたともいえる。次回訪れた際には、地元の方々に、もっともっとお話を聞けたらいいな、と思う今日この頃なのであった。 (この項、終り)
by james_y1964
| 2016-12-11 22:23
| 『東かがわ市右往左往』
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Comments(2)
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shin
at 2016-12-16 09:51
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日塚峠の通学風景の写真、なんとこの時代の小学生がピースしてるって驚いちゃいました。だって白黒写真なんだもん、てっきり昭和4年て思いましたよ。そのあとの昭和26年の写真と変わらへんやん。なんで平成4年で、白黒写真にするかぁ〜⁉︎
けど、平成4年でも小学生が、こんな山道を通学してるんや。
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james_y1964 at 2016-12-18 17:20
shinさん、返信が遅れまして失礼しました!(この一週間かなりバタバタしてたもんで・汗)
えー、元写真はカラーだったのでしょうけど、掲載されているのが百周年記念誌の白黒ページなもんで、との都合ではないかと。 確かにこの山道は、現在としてはちと過酷かな。エリアそのものが山の中だからある程度は仕方ないのでしょうけど。 ただ、イナカ在住者としては驚きませんな(笑)。私は小学生時代、平地とはいえ歩いて毎日往復6㎞以上通学してましたからねえ。
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